<旅のメモ>
2014.04.30
Lecceは人口約9万人、レッチェ県の県都。古代ギリシャ時代以来2000年以上の歴史を持ち、バロック様式の建築が市内に多いことから「南イタリアのフィレンツェ」とも呼ばれる。
伝説によると、レッチェはシバル(Sybar)と呼ばれ、メッサピ人によってつくられ、トロヤ戦争時代から存在したという。のちにイアピゲ人(en)に占領され、紀元前3世紀には古代ローマに征服され、その名をルピアエ(Lupiae)と改名した。
紀元2世紀のハドリアヌス帝時代、市は3km北東へ移動し、名をリケア(Licea)またはリティウム(Litium)とされた。レッチェには劇場、円形闘技場があり、ハドリアヌス港(現在のサン・カタルド)とつながっていた。地元でサントロンツォ(聖オロンツォ)と呼ばれるレッチェのオロンティウスは、市初代のキリスト教司教を務めたとされ、レッチェの守護聖人となっている。
西ローマ帝国滅亡後、レッチェは東ゴート王トーティラにゴート戦争のさなか略奪を受けた。549年に東ローマ帝国に占領され、5世紀に渡って支配を受けた。その間、サラセン人、ロンゴバルド族、マジャール人、スラヴ人の事実上の征服を数回に分けて受けた。
11世紀のノルマン征服後レッチェは貿易の要地となり、その後のホーエンシュタウフェン家支配、アンジュー家支配時代に繁栄した。レッチェ公国(en)は、1053年から1463年にかけてシチリア王国の最大かつ重要な封土の一つであった。その後、王国の直轄領として併合された。15世紀から、南イタリア有数の都市になり、1630年から貴重なバロック建築の建設が始まった。オスマン帝国による侵攻をかわしたことで、16世紀初頭に新たな城壁と城が神聖ローマ皇帝カール5世 によって築かれた。
1656年、ペストがレッチェで大流行し、数百人の死者を出した。
1943年、レッチェに配備されていた爆撃機が、エーゲ海で孤立してしまったイタリア軍基地支援にまわり、第二次世界大戦中ドイツ軍と戦った。
Lecceには13:30頃に旧市内にすんなり入り、ホテル近辺を通り過ぎ、Castello Carlo V(ジャコモ・デッラカジャが1539年から1549年にかけ建設。角張った要塞のある台形の平面図となっている)の向こう側に駐車。ホテルは狭い通りにありそうだったので歩いてホテルを訪ねる。普通のビルにある住居への入口。呼び鈴を押してドアを開けて貰って小さなエレベータで2階へ。普通のアパートといった感じ。奥さんが色々説明してくれるが、英語はほとんどダメ。部屋は広くてモダンで清潔。Piazza S. OronzoとRoman Amphitheatre(ローマ円形闘技場)が見渡せる最高のロケーション。駐車場は奥さんでは説明しきれずに、ご主人が出てきて英語で説明してくれた。自分の持っている駐車許可証でホテルの裏手に路上駐車出来るというのでそうさせて貰った。
Leccesalento Bed And Breakfast
Via Dei Mocenigo, 2 Lecce, 73100
tommaso.carratta@tin.it
Euro77/ night (incl.TAX/BF)